孫正義ってどんな人?ソフトバンク創業者の経歴や噂

孫正義ってどんな人?ソフトバンク創業者の経歴や噂

 

孫正義と言えば、ソフトバンクの社長で日本で一番のお金持ちっていうイメージがありますが、どんな経歴や人物像なのか調べてみました。

「髪の毛が後退しているのではない。私が前進しているのだ」というTwitterが一時期有名になりましたが、ユーモアのセンスも長けてそうですね!
 
 
 

孫正義とは

 
ソフトバンクの創業者で、ソフトバンクグループ代表取締役会長兼社長やヤフー取締役、スプリント会長、アーム会長、アリババ取締役、福岡ソフトバンクホークス取締役などを務める実業家。日本の長者番付では2年連続1位で、2018年の総資産は2兆2930億円にもなるとか。

在日韓国人実業家の二男として佐賀県鳥栖市の朝鮮人集落に生まれ、父親は密造酒製造販売と消費者金融・パチンコ業で大成功した人物。孫正義も実業家を夢みてアメリカに渡り、そこで会社を設立し、その後日本に帰国。帰国後はソフトバンクを立ち上げ、敏腕実業家として成功した。
 


 
 
 

孫正義プロフィール

 

名前 孫正義(そんまさよし) もともとは安元正義
誕生日 1957/8/11
出生地 日本 佐賀県鳥栖市
国籍 日本
家族構成 妻と娘2人
趣味 ゴルフ(自宅の地価に個人練習場を設置)
マネジメントゲームMGが鬼のように強いらしい

 
 
 

孫正義年表

 
代表的なイベントを載せていきます。
 

1973年  久留米大付設高等学校入学
1974年  久留米大付設高等学校を中退してアメリカのホーリー・ネームズ・カレッジ英語学校に入学
1975年  飛び級してホーリー・ネームズ・カレッジ入学
1977年  カリフォルニア大学バークレー校経済学部3年生に編入
1979年  シャープに自動翻訳機を売り込んで1憶円の資金を得る
     米国でソフトウェア開発会社の「Unison World」を設立
     インベーダーゲームを日本から輸入
1981年  株式会社日本ソフトバンク(現ソフトバンクグループ)設立
1990年  日本に帰化
     社名を株式会社日本ソフトバンクからソフトバンク株式会社に変更
1996年  米ヤフーとソフトバンク合弁のヤフー株式会社を設立して代表取締役就任
     ジェイ・スカイ・ビーをニューズ・コーポレーションと折半出資により設立
1998年  日本デジタル放送サービスと合併、スカイパーフェクTV!を開始
1999年  ナスダック・ストック・マーケットと共同出資してナスダック・ジャパンプランニング株式会社を設立
2000年  日本債券信用銀行(現あおぞら銀行)の株式を取得して取締役に就任
2004年  日本テレコム株式会社を買収
2005年  アリババ取締役就任
2006年  ボーダフォン株式会社(現ソフトバンク)取締役会議長、代表執行役社長兼CEO就任
     福岡ダイエーホークスと福岡ドームを買収して福岡ソフトバンクホークスのオーナー就任
2013年  スプリント会長就任
2015年  ヤフー株式会社取締役就任
2017年  中国の清華大学経済管理学院顧問委員に就任
2018年  アーム会長就任
     ソフトバンク株式会社取締役会長就任
     スプリント取締役会長就任
 
 
 

孫正義の歩んできた道

 
簡単ではありますが、孫さんがどんな人生を歩んできたのか、有名なエピソードをダイジェストで書いていきます。
 


 
 

佐賀県鳥栖市の朝鮮人集落で誕生し、貧しい生活を送る

 
孫正義(当時は安元正義)は、在日朝鮮人三世として佐賀県鳥栖市の朝鮮人集落で生まれ、幼少期は貧しい生活を送っていました。

孫正義の祖母はもともと韓国に住んでおり、14歳のときに漁船の船底に潜り込んで、たった一人で日本にやってきました。不法滞在ってことですよね。そして、たどり着いた佐賀県の朝鮮人集落で勝手に家を建てて無理矢理住み着きました。だから、もともと孫正義が住んでいた家には住所がなく、番地がない「無番地」だったそうです。そこで孫さんも生まれました。

家はボロボロのトタン屋根で、汽車が通ると煙で家の中が真っ黒になったそうです。また、雨が降ると井戸に家畜の糞なども交じり、カオスな状況だったようですね。
 
 
 

孫正義の父がビジネスで大成功

 
孫家族は貧しい生活を送っていましたが、孫正義の父親がその状況を打破するために密造酒の製造販売や、パチンコ業、貸金業、鉄くず販売など、様々な事業を行って成功を収めました。そして、住所のない無番地生活からも脱出することができました。

お父さんもビジネスセンスがあったんでしょうね。パチンコ業では大成功をおさめ、佐賀と福岡で56軒もの店舗を経営していたそうです。孫正義のビジネスへの興味、センスはお父さん譲りだったのかもしれませんね。
 
 
 

実業家を目指してアメリカに渡る

 
順風満帆かと思われていた孫一家でしたが、ある日お父さんが入院してしまいました。父が働けない状態になってしまったので、母と兄弟たちは生活日とお父さんの入院費などをねん出するために必死に働きました。

家族の危機を感じ、何かビジネスになるようなものを見つけるため、孫正義はアメリカに行くことを決意しました。家族には反対されたみたいですが、孫正義は家族を支えるために、高校を中退して16歳で渡米しました。アメリカで生活していた頃にはお父さんは回復していて仕事もできるようになっていたみたいですが。
 
 
 

渡米後、大学試験検定を受けてホーリーネームズ大学に入学

 
サンフランシスコのセラモンテ高校に編入したあと、孫正義は教科書の内容は全て解ると校長に掛け合い、カリフォルニア州の大学試験検定を受けました。

英語で出題される試験では落ちてしまうと考えた孫は、「日本語ならばこの問題は解ける」と、辞書の貸し出しと時間の延長を申し出た。州知事に電話までして交渉し、辞書の持ち込みと時間延長を許可してもらい、見事ホーリーネームズ大学に合格しました。
 
 
 

一時帰国中、日本マクドナルドの経営者の藤田氏に会う

 
孫正義が高校生のとき、日本マクドナルドの敏腕経営者である藤田氏が書いた「ユダヤの商法」という本を読み、衝撃を受けました。それから、どうしても藤田さんに会いたいと考えるようになり、ストーカーばりに毎日毎日藤田さん宛に電話をかけるようになりました。藤田さんの秘書に藤田さんに会わせて欲しいと言い続け、空港で出待ちをするなどして面会の機会を狙っていました。すごい行動力ですね。

ようやく努力が実を結び、藤田さんとの15分の面会が実現しました。その貴重な面会で、孫正義は藤田さんに「これから何を勉強すべきか?」ということを聞きました。藤田さんは、「これからは、コンピューターの時代だね。オレがお前の年齢なら、コンピューターを勉強する」と答えました。そこから孫正義はコンピュータを学ぶためにアメリカの超名門・カリフォルニア工科大学バークレー校に編入しました。

カリフォルニア工科大学バークレー校は、2017年の「世界大学学術ランキング(The Academic Ranking of World Universities 2017、ARWU2017)」で5位を獲得している超名門です。ちなみに東京大学は24位で、孫さんの優秀さは桁違いって感じですね。
 
 
 

実業家を目指し、人生50年計画を考える

 
孫さんが19歳のとき、実業家を目指して「人生50年計画」というものを作りました。その内容がこちら。

[人生50年計画]
 20代で名乗りをあげ
 30代で軍資金を最低でも1000億円貯め
 40代でひと勝負し
 50代で事業を完成させ
 60代で事業を後継者に引き継ぐ
 
計画的ですね。なんだか目標は大きいような気がしますが、それをちゃんと実現してきているんですね。すごいです。
 
 
 

在学中発明しまくり、多国語翻訳機をシャープに1億円で売った

 
孫さんは発明をして儲けようと考え、一日一つの発明をし、それを一年間続けました。その発明の中には、音声装置付きの多国語翻訳機の試作機があり、孫さんはこれを売ってお金にしました。やっぱりビジネスセンスがすごいですね。

この音声装置付きの多国語翻訳機をシャープの佐々木専務に売り込み、1億円で買い取ってもらうことに成功しました。そして、この1億円をもとに、アメリカでユニゾンワールドという会社を設立しました。
 
 
 

日本に帰国し、日本ソフトバンクを設立する

 
日本に帰国するにあたって、日本でやるべきことを1年半考え、40種類の事業を考えたそうです。そして、その中から50年やり続けられるものであり、ナンバーワンになれるものを独自の25項目の基準で分析をして、ソフトウェアの卸事業、出版業を行うことにしました。この25項目の基準が気になりますね。

そして1981年、24歳のときに日本ソフトバンクを設立しました。銀行の融資を断られたり、毎月1000万円もの赤字を出したりと大変なこともあったようですが、シャープの佐々木専務が個人資産を担保にしてくれたり、ハドソンとの独占契約を結ぶことに成功するなどして、設立2年目には35億円の売上をあげるまでになりました。

「将来は、豆腐屋のように、一兆二兆と数えるような会社にしたい」って言っていたそうですよ。従業員はその発言にドン引きしていたそうですが。
 
 
 

当時無名のヤフーに多額の出資をした

 
1995年、38歳のときに当時無名だったアメリカのヤフーに多額の出資をし、これが大成功で莫大な資金を得ることになりました。出資額は200万ドル(当時のレートでおよそ2億円)で、この決断によって孫さんは世界的に有名な実業家になりました。

そして翌年の1996年にはYahoo japanを設立し、ソフトウェアの卸事業、出版、通信事業など様々な分野に事業を広げ、球団のオーナーも勤め、世界の大富豪の一人になりました。ここから先は色々な会社を設立したり買収したりと、現在まで幅広くビジネスを展開しています。
 
 
 
 

ここからは孫さんの人柄が分かる仕事でのエピソード

 
ここからは孫さんの人柄が分かるような仕事でのエピソードをご紹介していきます。
 


 
 
 

昼夜問わず電話をかけまくる

 
ソフトバンクが開発した人型のロボットである「ペッパー」はご存知でしょうか?このペッパーの開発中に、孫さんが良いアイディアを思いついたということで、わざわざ午前2時にエンジニアに電話をかけてきたそうです。

これ以外のビジネスでも、気づいたことがあれば深夜早朝問わずすぐに電話をしてくるらしく、かなりの電話の数をかけるそうです。大晦日だって関係なく電話がかかってくるそうですよ。思いついたら即行動ってことですね。恐ろしいです(笑)
 
 
 

記憶力がすごい

 
孫さんはとんでもない記憶力だそうです。なんでも覚えていて、数か月前に話した内容も鮮明に記憶しているそうです。数字なども正確に覚えており、投資額や請求額などもしっかりと覚えており、孫さんと関わる人達はうかつな返答や会話はできないと感じているとのことです。
 
 
 

よく怒るが思いやりもある

 
孫さんはとにかくよく怒るそうです。メールで怒られ、電話で怒られ、最終的には呼び出されて怒られるそうです。普段はかなりボコボコに怒られることが多いようですが、思いやりもあるみたいです。

ソフトバンクロボティクスの社長に対しては、「お前にはたくさんチャンスをやるからモノにしろよ」と急に熱く語ったり、ソフトバンクグループの人事部長には「海外に出ると人事はさらに重要になる。頼むぞ」と言ったそうです。こういう言葉をもらって頑張ろうって思う人も多かったみたいですよ。孫さんは人を動かすのが上手なんでしょうね。
 
 
 

リストラはしない

 
人を大事にする孫さん。ソフトバンクが大きな会社になって、買収などを続けたとしても、一度もリストラをしたことがないそうです。人を大切にしているからこそ、ビジネスでの大きなネットワークを築くことができ、会社もどんどん大きくなっていっているんだと思います。

今後大きくなっていくであろうビジネスに集中することで、安定して従業員を雇っていけるようにしているようです。そういう会社だったら働きたいって思いますもんね。どんどん人も増えていきそうです。
 
 
 

社会貢献したい

 
孫さんは以前、「お金じゃ無い、地位や名誉でもない、ばあちゃんがやっていたような、人に喜んでもらえることに、貢献できたら幸せだ。どこか、名前も知らない、小さな女の子に“ありがとう”と言ってもらえるような、そんな仕事がしたい」と言っていました。東日本大震災のときには100億円の寄付をするなど、社会貢献への想いが強いようです。

以前行われた孫さんのスピーチでは、「とにかく僕は捧げたいんです。自分の人生を、人々の笑顔のために。」というように締めくくられていました。家族はもちろん、社員、顧客、もっともっと多くの人の笑顔のために人生を捧げたいと考えているようです。そのために孫さんは情報革命を起こしたいと考えており、現在は人工知能の研究・開発を行っています。これによって人々が生活しやすい環境を作り、社会に貢献したいと考えています。

人工知能がもっともっと進化すれば、ウイルスや災害など、今までの人間の叡智で守ることができなかったことから守ってくれる、がん、白血病、HIVなど、いま人間が治すことができない難病から人間を救ってくれる、超貧困の生活をしている人々が平均的な生活ができるように助けてくれます。孫さんはこういう世の中を創り出していきたいと考えています。
 
 
 
 

人柄も良くて頭も良くて努力家で天才ですね。孫さんってすごいです!
 
 
 
 
 


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