世界に認められたホンダの低公害CVCCエンジン開発ストーリー

世界に認められたホンダの低公害CVCCエンジン開発ストーリー

 

 
 

CVCCエンジンとは

 
CVCCエンジンとは、ホンダが開発した低公害のエンジンであり、排気ガスに含まれる有害物質を軽減することに成功した環境にやさしいエンジンです。当時世界一厳しく、パスすることは不可能とまで言われた米国のマスキー法という排気ガス規制法の規制値を世界で初めてクリアしました。
そして昭和48年以降、CVCCエンジンはホンダを代表する初代のシビック、アコード、プレリュードに搭載され、高い評価を得ました。
 
 
 

CVCCエンジン開発プロジェクトのあらすじ

 
もともとホンダはバイク中心の2輪メーカーだった。しかし、昭和40年頃から日本では自動車ブームが起き、ホンダは自動車業界への参入を目指してホンダ創業者である本田宗一郎のもと日々開発を行っていきました。

本田宗一郎の夢は、スピードの出る4輪自動車を作ること。ホンダはその夢を叶え、スピードの出る4輪自動車を作り上げて爆発的な売上げをあげた。自動車事業に参入して順風満帆だったHONDAだが、1件の訴訟から売上げが落ち込む。自動車事業撤退寸前まで追い込まれたが、「CVCCエンジンの開発」を成功させたことによって世界のホンダへと躍進していった。
 
 
 

ホンダが自動車業界に参入

 
昭和40年、日本で自動車ブームが起きたころ、これがやりたい!ということで本田宗一郎も自動車業界に参入した。本田宗一郎の周りには車を作りたい技術者たちが400人も集まり、厳しい環境の中で寝る間も惜しみ開発を行い、昭和41年にホンダ初の4輪自動車を発売した。
 

 
 
 

自動車先進国アメリカでは環境問題が深刻化

 
同じ頃、自動車先進国のアメリカで、自動車の排気ガスによる環境問題が深刻化。
国民から激しい抗議をうけて国が動き出したものの、アメリカ大手の自動車メーカーは対応しきれず困惑していました。
 
 
 

ホンダで低公害エンジンの研究が始まる

 
このアメリカの環境問題に目を付けた社員がおり、それをきっかけにホンダでも低公害エンジンの研究が始まりました。

これに目を付けたのがホンダの性能テスト担当の八木静夫さん。八木さんは、アメリカの大手自動車メーカーも解決できない問題を解決してみたい!と考え、本田宗一郎に直談判しました。やりたいならやってみろとのことで、低公害エンジンの研究をするためのチーム「AP研」が立ち上げられました。
 

 
 
 

本田宗一郎と八木さんの開発方針のズレ

 
このときは自動車を作ればバンバン売れていく時代だったため、本田宗一郎は低公害エンジンの開発には興味を示さなかった。他の社員からも、この忙しいときに成果にもならない研究をやっているということで白い目で見られたり、と、肩身の狭い思いをしながら日々研究を行っていたそうです。けど八木さんは、このアメリカで起こっている環境問題はいつか日本の環境問題になると思い、使命感を持って研究を続けていきました。
 
 
 

排気ガスによる人体への問題発生

 
昭和45年の夏の暑い日、環状7号線のわきにある学校で女子生徒たち43人が次々に倒れたそうです。原因は排気ガスと太陽光でできた光化学スモッグの影響だとか。

これを見た技術者は、やっぱり日本でも環境問題が起こっていると危機感を感じた。メンバー達は子供たちのために青空を守りたいと思っていたそうです。
 

 
 
 

本田宗一郎が殺人罪で告訴される

 
同じ頃、本田宗一郎が殺人罪で告訴された。ホンダが販売していたN360での事故死を受けて、欠陥車を販売したとして遺族から訴えられた。本田宗一郎は不起訴になったものの、ホンダのイメージがかなりダウンし、やっぱりバイクの会社に自動車の開発は無理だったんだと言われるようになりました。

これによりホンダの売上は落ち込み、自動車事業を撤退するかどうかの判断を迫られました。
 
 
 

アメリカでマスキー法が成立する

 
アメリカでマスキー法が成立し、5年以内に排気ガス中の有害成分を10分の1に削減できない車は販売ができなくなりました。

HONDAは自動車事業からの撤退を回避するため、起死回生のチャンスとして低公害エンジンの開発に力を入れることになりました。ここでようやくAP研が注目され、HONDAの自動車事業存続を低公害エンジン開発に委ねることになりました。
 

 
 
 

本田宗一郎が勝手に低公害エンジンは開発済であると発表

 
本田宗一郎は記者会見で、新しい低公害エンジンを開発し、これでマスキー法に挑戦すると発表した。ですが、このときまだエンジンは出来ていなかった…。

本田宗一郎の言い分としては、完成を待っていてはいつまで経っても発表できない、とのことです(笑)ここから本格的なエンジン開発がスタートしました。このプロジェクトは、本田宗一郎ではなく技術者である久米是志さんに託されました。
 
 
 

久米さん率いるチームは浸食を惜しんで低公害エンジンを開発した

 
プロジェクト名は「硫黄島上陸作戦」とのこと(笑)プロジェクトの合言葉は「子供たちに青い空を!」。

残り9ヶ月でマスキー法に合格するため、メンバー達は試作機を作り続けました。設計→試作→テスト→を繰り返して試作機は100を超えたそうです。会議室には仮眠ベッドまで作られたそうです...。

そして遂に、低公害エンジンであるCVCCエンジンが完成。テストでは排気ガス中の有害成分を10分の1に抑えられていたそうです。
 

 
 
 

プロジェクトメンバーがアメリカに渡る

 
昭和47年、プロジェクトメンバーがアメリカに渡り、開発したエンジンがマスキー法にパスできるか審査を受けました。その時点ではまだどの自動車メーカーもマスキー法に合格していなかったため、これに合格すればすごいこと。

審査当日、エンジンをかけたときに変な音がし、日本でテストしたときのようにはいかずに結果としてマスキー法に合格することはできなかった。が、長旅によって車に不調が出たということで、審査官に部品を交換させてもらえるように必死で頼んだそう。ようやくOKをもらって再度テストをしたところ、見事合格。

ちなみに、この代えの部品はもともとアメリカに持っていく予定ではなかったのですが、メンバーの一人がこの部品の欠陥が原因でテストに不合格する夢を見たらしく、どうしてもアメリカに持って行く物リストに加えて欲しいとお願いしたそうです。すごい。

こういうスピリチュアル的なものにも助けられ、ホンダは世界で初めてマスキー法に合格するエンジンを開発した企業として世界中で注目されることとなりました。
 

 
 
 

この8か月後に本田宗一郎が社長を引退

 
ホンダが世界で初めてマスキー法に合格する低公害エンジンを開発してから8か月後、ホンダの創業者である本田宗一郎が突然社長を引退しました。

本田宗一郎は気づかないうちに自分の企業の利益を重視してしまっていたが、ホンダの若い技術者は社会のために開発をしていた。
これに気付いた本田宗一郎は、なんだか自分の考え方も変わってしまったし、これからは若い技術者にバトンタッチしていこうって思ったんだと思います。
若い技術者たちがどんどん育ってきていることに感動していましたし。なんだか切ないような気もしますが、素敵なストーリーですね。
 
 
 

感想

 

本田宗一郎の人柄に惹かれた
本田宗一郎さんが社長を降りるときの潔さにとても感動しました。すごく厳しい人だったみたいですが、とても社員思いでもあり、素敵な方だったそうですよ!

技術者達の強い信念に惹かれた
ホンダが世界的企業になれたのは、本田宗一郎をはじめ、強い信念を持った技術者がたくさんいたからなんでしょうね。今も昔も、こういう信念を持って仕事をしている人って強いです。尊敬!

私も何か大きなことがしたいと思った
こういう素敵な会社を知ると、自分には何ができるのかな~って思っちゃいます。時代ごとに仕事の内容や働き方は少しずつ変化しているので、私たちは今の時代に合った方法で社会に貢献していけたら良いんでしょうね、きっと。難しいですけど(笑)けど、CVCCエンジン開発プロジェクトに感銘を受け、私も何か大きなことがしたいと思ったんだ!!!笑

そして私は考えた
何がしたいのかは今のところ見当もつきませんが、何をするにしても資金が必要ですし、今のうちに集めておこうと思います。飛躍(笑) けど、あまり取り柄のない一般人ができるお金儲けの方法ってあるのかな、と思ったので色々と調べてみました。何か大きなことがしたい人は是非読んでみてください(笑)
 

>>(リンク 記事作成中)
 
 
 
 


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