北海道と青森をを繋ぐ!命を懸けた青函トンネル建設ストーリー

北海道と青森をを繋ぐ!命を懸けた青函トンネル建設ストーリー

 

あらすじ

日本の高度成長期、北海道と本州を繋ぐ道はなく、連絡船で人や物資を運んでいました。しかし、津軽海峡は船の墓場とも呼ばれている荒海。天候によって物資が届かなかったり、悲しい海難事故も多発していました。

そこで当時の国鉄は、この状況を打破するために函館と青森をトンネルで繋ぐという計画を打ち出しました。もともと工期は10年の予定でしたが、トンネルの掘削は創造を絶するほどの難工事となり、完成には24年もの期間を要しました。

また、過酷な環境で34名もの尊い命が失われてしまいました。この過酷な工事に命を懸けて挑んだ74名の職人の青函トンネル建設ストーリーをご紹介します。

青函トンネル建設のきっかけとなった出来事

津軽海峡は船の墓場とも呼ばれている荒海で、青函トンネルの建設計画以前にも命を落とす事故が多く発生していました。

昭和29年、気象予報の精度が今よりも低い頃、台風が青森県の北を通過しました。この台風直撃によって何隻もの船が行方不明となり、結果として1430人もの人が犠牲となる大惨事となりました。

当時、この事故はタイタニック号に次ぐ2番目の海難事故であると報道され、こんな痛ましい事故はもう起こしたくないと、国鉄が北海道と青森を結ぶ海底トンネル(青函トンネル)の建設を計画したのです。

昭和39年、74名の日本一のトンネル屋が招集された

津軽海峡の海底の地層は複雑に入り組んでおり、軟弱な地層もあることが分かっていました。難しい工事になるということは誰もが理解しており、全国から74名のトンネル工事の精鋭たちが招集されました。10年間の長い危険な工事のため、家族から反対される職人も少なくはなかったそうです。

しかし、職人たちは北海道に住む人々から熱烈な歓迎を受け、使命感を感じ、何がなんでも世界最長の海底トンネルを完成してやる、と闘志を燃やしました。

昭和39年5月、着工

昭和39年5月、まずは北海道側からトンネル工事が始められ、作業は24時間体制、8人のチームを作り3交代制で作業が行われました。トンネル工事の現場は、夏は気温が30℃を超える高温多湿、冬は気温が-20℃にも下がる低温多湿の環境で、作業員達の体力と気力を奪うような厳しい環境でした。

夏の暑さ、冬の寒さ、噴き出す海水、軟弱な地盤と格闘する日々が続きました。軟弱な地盤では重機が使えず、職人達が手作業で何日も何日も掘削することもありました。

しかし、この頃は案外工事が順調に進み、2年後には700mまで掘り進めることができました。

昭和41年、青森側からも工事が始まった

昭和41年、74人の職人の中から30人が北海道から青森に渡り、地質的に難しいと言われていた青森側からの工事に着手しました。予想していた通り、青森側からのトンネル掘削は想像以上に難航し、職人たちは日々軟弱な岩盤と噴き出す海水と戦いました。

昭和44年、青森側に大きな危機が訪れ、トンネルの壁が崩れて大量の海水が入ってきてしまうというトラブルが発生しました。掘り進めていたトンネルの先端部から海水がトンネル内に流れ込み、トンネル崩壊の危機です。

しかも、海水が迫っているトンネル後方には3000ボルトの高圧電源設備があり、このまま海水を止めることができなければそこにいる職人全員が感電死する危険性がある緊迫した現場。このままでは危険なので職人たちには退避命令が出ましたが、「トンネルを沈ませるわけにはいかない!」と、職人たちは身の危険を感じながらも海水が入ってくる穴を必死に塞ぐ作業を続けました。

そして職人たちは、命をかけてトンネルを守ったのです。

昭和51年、北海道側でも大量の海水流入事故が起きた

昭和51年、北海道側でも大量の海水流入事故が発生しました。
この事故は青森側の出水事故の非にならないほどの大量の海水が流入し、職人たちはこれでトンネルが沈んでしまう…と感じたそうです。

また、この海水が流入してきたポイントの近くにはトンネル全体の排水施設があり、この排水施設が沈んでしまうとトンネル自体が機能しなくなると言われていました。

これまでの努力を無駄にはしたくない、なんとしてでもこの排水設備を守らなければならない、と、職人たちは即席のイカダを作り、緊急用の排水装置を積んで濁流に飛び込んでいきました。

水が噴き出し、荒れるトンネル内のイカダの上という過酷な環境で、職人たちは90時間も排水作業を行いました。そしてようやく全国各地から排水ポンプが届き、増設したポンプによってようやく海水をくみ上げることに成功しました。

毎分85tの水が押し寄せ、結果としてトンネル内3㎞に渡って浸水しました。しかし、ここでも職人の命がけの行動が、トンネルを守ったのです。

最大の難関である土圧との戦い

2度の大きな出水事故からトンネルを守り抜いた職人たちに、最後の難関が立ちはだかりました。

トンネルが深くなれば深くなるほどかかる水圧と土圧が大きくなり、掘削時に掘削機のロットが圧力ではさまってしまうという現象が何度も何度も起きました。また、土圧によってトンネル内の鉄柱が折れ曲がってしまったりもして、工期にかなりの遅延が発生しました。

折れ曲がってしまった鉄柱を修復したり、掘削機が使えない箇所では職人たちが手作業でトンネルを掘り進め、この強い土圧のかかるポイントの工事はかなり難航し、結果として1㎞掘るのに5年もの時間がかかりました。

諦めずに地道に作業を行った結果、なんとかこのポイントを通過することができたのです。

排水や掘削の技術が飛躍的にあがった

この2度の大きな出水事故と難しい掘削工事を受け、排水やトンネル掘削のための技術が飛躍的に上がりました。

この長い長いトンネル工事作業を行いながら、職人たちは複雑な地層を事前に把握する技術や、特殊なセメントを注入して水が噴き出すのを止める技術などを確立していきました。

そして、その後は大きな出水事故が起こることは1度もありませんでした。

青函トンネルは完成したが、失うものも多かった

昭和60年、職人たちの努力によって無事青函トンネルが完成しました。予定工期は14年も延び、24年もの歳月を要し、34名もの尊い命が失われるという結果になりました。

トンネル工事に携わった人数は延べ1370万人、使われた火薬の量は2860t、総工費は6900億円にものぼりました。命がけでトンネル建設を行った職人たちの努力によって、人々が豊かに生活できる環境が完成したのです。

感想

技術者達の強い信念に惹かれた
いつ命を落とすか分からない危険な現場で、体力的にも精神的にも辛い仕事を前向きに頑張っていた職人たちの強い想いに惹かれました。絶対にトンネルを貫通させてみせる!という強い気持ちがあったからこそ、青函トンネルが完成したのだと思いました。
私も何か大きなことがしたい!
こういう心に響くようなストーリーを知ると、自分には何ができるのかな~って思っちゃいますね。24年間トンネル掘れるかと問われると、私にはきっとできないと思います。。けど、職人たちの気持ちの強さに感動し、私も何か大きなことがしたいと思いました!!!笑
そして私は考えた
何がしたいのかは今のところ見当もつきませんが、何をするにしても資金が必要ですし、今のうちに集めておこうと思います。飛躍(笑) けど、あまり取り柄のない一般人ができることってあるのかな、と思ったので色々と調べてみました。何か大きなことがしたい人は是非色々読んでみてください(笑)


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