建築革命と言われた日本初の超高層ビル「霞が関ビル」建設ストーリー

建築革命と言われた日本初の超高層ビル「霞が関ビル」建設ストーリー

 

 
 

霞が関ビルとは

 
霞が関ビルは、東京都千代田区霞が関三丁目に建てられた地上36階、地下3階、地上高147mの日本初の超高層ビル。設計は山下寿郎設計事務所、施工は三井建設と鹿島建設による共同企業体(JV)が行い、163億円の建設費をかけて完成した。地震に強い構造にするため、耐震設計として鋼材を組み上げた柔構造を採用している。
 
 
 

あらすじ

 
建築技術者の二階 盛(にかい せい)は、超高層ビルが立ち並ぶアメリカのマンハッタンで建築技術を学んでいた。地震大国日本では、超高層ビルは夢のまた夢だと言われていたが、二階は地震に打ち勝つ建築技術を確立し、マンハッタンに負けない都市を作りたいと考えた。

しかし、関東大震災の後強化された日本の法律(市街地建築物法)では、全ての建物の高さは31m以下とするように定められていた。そんな中、武藤清(むとうきよし)という人物が地震に耐えうる建築構造についての論文を発表。この論文は建築業界からも国からも注目され、市街地建築物法による建物の高さ制限は撤廃された。

これにより、日本で初めての超高層ビルの建設計画が立てられ、鹿島建設が地上36階、高さ147mの日本初の超高層ビル「霞が関ビル」の建設を行うことになった。責任者は二階盛が勤め、地震に負けない高層ビルを建てるという目標を掲げた。

建設中は鉄骨が傾くなどの問題が発生し、建設作業が暗礁に乗り上げることもあった。建設中に地震に襲われることもあった。様々な問題を乗り越えて、昭和43年、日本の建築革命と言われた日本初の超高層ビル「霞が関ビル」が完成した。
 

 
 
 

建築技術者の二階盛はマンハッタンに負けない都市を作りたいと考えた

 
建築技術者である二階盛(にかいせい)は、超高層ビルが立ち並ぶアメリカのマンハッタンで建築技術を学んでいた。地震大国日本では、超高層ビルの建設は夢のまた夢だと考えられていたが、二階は地震に打ち勝つ建築技術を確立し、マンハッタンに負けない高層ビルが立ち並ぶ都市を作りたいと考えていた。
 
 
 

地震大国日本で超高層ビルを建設するのは不可能だと思われていた

 
日本では大きな地震がある度に建物が倒壊し、多くの死者が発生、という悲しい歴史を繰り返してきた。関東大震災でも多くの人が被害に遭い、高い建物を建設すればするほど倒壊のリスクは高いというように考えられていた。その結果、建物倒壊のリスクを少しでも減らすため、市街地建築物法という法律が強化され、日本では31m以上の高さの建物を建てることができなくなった。これにより、超高層ビルを建設することは法律的に不可能になったが、その後、衝撃的な論文の発表により、この法律は撤廃された。
 
 
 

武藤清が地震に負けない建物の構造を書いた論文を発表

 
武藤清という人が、関東大震災でもびくともしなかった建物の構造について論文で発表した。

関東大震災で周囲の建物がほぼ全て倒壊したにも関わらず、上野寛永寺の五重塔だけは何事もなかったかのように建っていた。上野寛永寺の五重塔は建物中央に1本の柱がたっており、この仕組みを使えば地震に負けない建物が建てられるのではないかということだった。

この論文は建築業界などから注目され、この論文を見た国も、市街地建築物法による建物の高さ制限を撤廃した。当時、高度経済成長期ということで首都圏の人口増加がすすみ、ビルの需要が限界まで達したため、これも高さ制限撤廃の追い風になった。
 

 
 
 

日本初の超高層ビル建設プロジェクトが始まった

 
建物の高さ制限が撤廃された後、昭和40年、鹿島建設による日本で初めての超高層ビル建設プロジェクトが立ち上げられた。場所は霞が関、地上36階、高さ147mの超高層ビルの建設が始まった。

現場の責任者は建築技術者の二階 盛(にかい せい)が任せられた。上層部からは、高層ビルの建築技術を持つアメリカから技術支援をしてもらうという話があったが、二階はそれを断った。日本はアメリカと違って地震大国であり、地震の少ないアメリカの技術では地震に強い建物は作れない。地震に強い日本独自の建築技術を確立する必要がある、ということだった。そこからは二階を筆頭に、総勢150名、平均年齢25歳のメンバーが集められ、日本だけで超高層ビルの建設が始められた。

昭和40年7月に工事が始まり、工期は2年半。このビルには日本の建築技術の未来がかかっていた。
 

 
 
 

昭和41年、いよいよ鉄骨の組み上げが始まった

 
昭和41年6月、いよいよ鉄骨の組み上げが始まった。全国から鳶が60名招集され、皆、関東大震災の三倍の揺れにも耐えるビルを作ってみせると考えていた。

墨出作業は新人現場監督の角田(つのだ)が任せられた。墨出とは、鉄骨が垂直にくみあがっているかを計測する仕事で、鉄骨の組み上げに1mmのずれもないことを確認していく作業。少しでもずれていたらトビたちに修正を命じなければならず、新人には荷の重い任務だった。

鉄骨の組み上げが始まってから4か月、ビルは順調に13階まで建てられていた。そこで問題が起きた。
 

 
 
 

鉄骨の組み上げで問題が発生し、高層ビル建設は暗礁に乗り上げた

 
昭和41年10月、新人現場監督の角田がいつものように墨出をしていると、昨日ピッタリあっていたはずの鉄骨の組み上げにズレが生じていた。何故か昨日よりも2mm傾いていた。角田はすぐに鳶達に修正を命じ、4時間の修正作業を待って再び鉄骨の組み上げに取り掛かった。

そして夕方、再度墨出を行った結果、朝とは反対方向に2mm傾いていた。原因不明の鉄骨の傾きを受けて、責任者である二階は全ての鉄骨を調べなおすよう指示を出した。作業員は鉄骨1本1本墨出しを行い鉄骨が傾いていないか確認をした。その結果、全ての鉄骨が2mmずつ傾いていることが分かった。なぜ鉄骨が傾くのか原因が分からず、建設は暗礁に乗り上げた。
 

 
 
 

鉄骨が傾く理由は太陽光の熱が原因だった

 
昭和41年11月、ようやく鉄骨が傾く原因がわかった。

角田は1日に何十回も墨出を行っており、数日たったある日、その法則性に気が付いた。朝は西に、夕方は東に傾くということだった。そこから検討した結果、鉄骨が傾く原因は太陽の熱だということにようやく気が付くことができた。一時は暗礁に乗り上げたが、再び超高層ビルの建設が進められていった。
 
 
 

ビルは高さ100mを超え作業員達は生きた心地がしなかった

 
昭和42年2月、遂に鉄骨は25階の高さまで組み上げられた。高さは100mを超え、誰も経験したことのない高さにまでなった。高さ100m、足場の幅は30cmという過酷な環境で、作業員たちは光化学スモッグや突然吹く突風にも襲われた。光化学スモッグによる頭痛や吐き気、突然吹く突風の恐怖に耐える日々が続き、作業員達は生きた心地がしなかった。しかし、作業員達は日本で初めての超高層ビルを建設したいという熱い想いで作業に取り組み、霞が関ビル建設は順調に進んでいった。
 

 
 
 

建設中の霞が関ビルを大きな地震が襲った

 
霞が関ビルの建設が順調に進んでいた昭和42年3月、なんと関東地方を激しい地震が襲った。

地震発生時、地上30階、幅30cmの足場ではたくさんの作業員が建設作業を行っていた。下で作業していた責任者の二階らは慌てて外に飛び出し、作業員とビルの状況を確認しに行った。二階らが恐る恐るビルを見上げると、建設途中の霞が関ビルは揺るぎもせずにそびえ立っていた。更に、地上30階で作業をしていた作業員たちは、地震が起きていたことにすら気が付いていなかった。

メディアからは日本初の高層ビルの耐震性を疑問視する声も上がっていたが、この地震によって霞が関ビルが地震に耐えうるということが証明された。
 
 
 

地震に強い日本初の超高層ビル「霞が関ビル」が完成

 
昭和42年4月18日、上棟式で最後の鉄骨が組み上げられた。鳶たちは皆、最上階の鉄骨に名前を書いた。感動の瞬間だった。

昭和43年、日本初の超高層ビル「霞が関ビル」が完成した。地震大国日本では不可能と考えられていた超高層ビルが完成し、日本建築の革命と考えられた。
 

 
 
 

感想

 
とにかくみんなすごい!
地上36階で命綱をせずに作業している作業員達を見て驚きました。高層ビルの作業現場はみんな初めての経験で、恐怖もあったはずなのに逃げ出すことなくビルを完成させたことに感激!本当にすごいです!
 
とにかく感動した!
誰も経験がなく、辛く過酷な現場で、みんなが一致団結してビルを完成させたんだと思うと、とにかく感動しました。泣けます!
 
地震に耐える建築物を建てたことは日本建築界の革命
日本では昔から地震の度に大きな被害が出ていましたが、地震に耐えられる建物を建てることができ、これは本当に革命だと思いました。この人たちがいたことで、地震による被害はかなり抑えられているんだと思います。感動品質!
 
私も何か大きなことがしたい!
とにかくすごい!とにかく感動した!そしてなんだか私も触発された!ビッグになりたいです(笑)
 
そして私は考えた
何がしたいのかは今のところ見当もつきませんが、何をするにしても資金が必要ですし、今のうちに集めておこうと思います。飛躍(笑) けど、あまり取り柄のない一般人ができるお金儲けの方法ってあるのかな、と思ったので色々と調べてみました。何か大きなことがしたい人は是非読んでみてください(笑)
 
 
 
 
 


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