命を救う!医師と技術者が作ったオリンパスの胃カメラ開発ストーリー

命を救う!医師と技術者が作ったオリンパスの胃カメラ開発ストーリー

命を救う!医師と技術者が作ったオリンパスの胃カメラ開発ストーリー

 

 
 
 

あらすじ

 
東大付属病院に勤める宇治医師と、オリンパスに勤める技術者の杉浦さんと深海さんの胃カメラ開発ストーリー。

昭和24年、宇治医師は戦地で助けられなかった多くの命に悔い、少しでも多くの人の命を救うには胃カメラが必要だと考えた。宇治の熱意によって胃カメラ開発は始まったが、開発はスムーズにはいかなかった。技術者たちは自分のプライドにかけて試行錯誤しながらも、なんとか一つずつ問題を解決していった。ようやく完成した胃カメラは、多くの医師たちから称賛され、世界からも脚光を浴びる存在となった。
 
 
 

少しでも多くの人の命を救いたい熱血医師がいた

 
昭和24年、戦後の傷跡がまだ残る頃、東大付属病院に勤める若き医師である宇治達郎さんは、戦地で助けられなかった命に悔いるため少しでも多くの人の命を助けたいと考えていた。

当時は胃がんで亡くなる人が多く、宇治はこの手のほどこしようのない病気にどう立ち向かえば良いのか分からずにいた。この頃は胃がんを早期に発見する方法がなく、実際に開腹してみないとどういう状況なのか全く分からなかった。そして開腹したときには手遅れで、治療もできないままお腹を閉じることも多かった。宇治はこの状況をどうにか打破したいと強く思い、胃の中を撮影できるカメラがあれば良いのにと考えていた。
 


 
 
 

オリンパスの技術者を捕まえ、胃カメラを一緒に作ろうと口説いた

 
宇治はどうしても胃がんを早期に発見する方法が欲しかった。たまたま出張先で出会ったオリンパスの技術者である杉浦さんを捕まえ、帰りの電車の中で胃の中の写真を撮る小型カメラを一緒に作って欲しいと口説きまくった。

最初はイマイチな反応しかできなかった杉浦だったが、宇治の想いの強さに心を打たれ、次第に胃カメラに興味を持つようになった。電車を降りる頃には、自分も人の命を救う胃カメラの開発がしてみたいとさえ思うようになっていた。
 
 
 

胃カメラの開発を提案するも会社には却下される

 
杉浦はオリンパスで新型顕微鏡の開発を任されていた。しかし、人の命を救う胃カメラの開発がしたいという想いが強くなっていき、その気持ちを上司にぶつけた。胃カメラが完成すれば会社にとっても有益なことだと思い、上司にかけあったが胃カメラなんてできるわけがないということで開発は却下された。

そんなとき、深海さんという技術者が転勤してきた。深海は戦時中、ゼロ戦の機関銃開発などの精密機械の開発を行っており、細かい技術が必要な胃カメラ制作には最適の人材だった。杉浦は深海に一緒に胃カメラを作って人の命を救わないかと声をかけ、深海はその話を聞いて是非やりたいと思った。

昼はお互い社内の業務をこなし、夜に集まって胃カメラの開発を始めた。もちろん予算もつかないため、自分達の給料から開発費を賄った。
 


 
 
 

胃カメラの開発が始まった

 
熱血医師の宇治は診察が終わってからオリンパスに向かい、宇治、杉浦、深海の3人で胃カメラ開発を進めた。3人は1か月かけてようやく胃カメラの設計図を書き上げた。

人の体を傷つけないようにする胃カメラの開発は簡単ではなかった。食道よりも細い直径12㎜の管の中に、カメラなど全ての機能が詰め込まれた。開発は数ミリとの闘いで、市販のものは使えず、自分達で改造しなければならないものも多かった。

また、この頃は戦後から4年で、食料すらまともにない時代だったため、自分達の給料から部品のお金をねん出するのは大変なことだった。
 
 
 

胃の中を明るく照らせる電球が見つからなかった

 
レンズや他の部品はなんとか入手することができたものの、胃の中を明るく照らせる小さな電球がどうしても見つかず、苦労した。どの工場に頼んでも、そんな電球は作れないと門前払いされた。

そんな日が続く中、特殊な電球を作れる名人がいるという話を聞き、杉浦と深海はその名人に望みをかけて会いに行った。その名人は丸山さんという23歳の若い職人だった。

杉浦と深海は、あなたの技術が人の命を救うんだ!と、胃カメラの電球を作って欲しいと頼み込んだ。意外にも、丸山はあっさりと引き受けてくれた。
 


 
 
 

電球作りは大変な作業だった

 
電球は小さくなくてはならないが、強い明るさが必要ということで、電球開発はなかなかうまくいかなかった。フィラメントといわれる電流を流す線を二重にするなどして、照度は確保することができたものの、光る回数がどうしても足りなかった。

杉浦は最低20回光らせられる電球が必要と言ったが、電球職人の丸山は3回程度しか光らせられなかった。3回しか光らない電球では使い物にならないが、丸山は自分のプライドにかけて20回光る電球を作ってみせると誓った。それから丸山の長期間に渡る孤独な電球作りが始まった。
 
 
 

胃カメラの試作機で実験を行った結果、根本的な問題が発覚した

 
胃カメラの開発を始めて4か月、電球はまだ2,3回しか光らなかったが試作機を作って実験をしてみることにした。

実験は犬の胃を撮影することとし、犬の胃に水を入れてふくらませて撮影を行った。カメラのシャッターは3回きられたが、現像した写真は白く濁り、何も見えなかった。次は犬の胃から水を抜き、空気を入れて膨らませて撮影を行った。カメラで撮影して現像したところ、画像として判別はできるものの、胃のどの部分が映し出されているのか分からなかった。

胃カメラが胃のどこを撮影しているのかが分からなければ、せっかく写真に撮ることができてもあまり役に立たない。ここにきてこの胃カメラの根本的な問題が発覚した。
 


 
 
 

実験から半年後、ようやく2つの問題が解決した

 
この胃カメラ開発で問題になっていたのはこの2点。
 ①20回以上光る小型電球が作れない
 ②胃カメラで胃のどの部分を撮影しているのかが分からない

①の小型電球については、電球職人の丸山が何度も何度も試作を作り、電流を流すフィラメントに工夫をすることでようやく完成した。職人のプライドにかけて20回光る電球を作ってみせると言っていた丸山だったが、電球開発を始めて8か月でようやくみんなが納得する電球を作り上げることに成功した。

②の胃のどの部分を撮影しているのか分からないという問題は、意外なところから解決した。今井さんという宇治の助手を務めていた人が、部屋の電気をつけないまま胃カメラの実験を行っていた。その時、胃の中の電球が皮膚を通して光ったため、この方法を使えば胃のどの部分を撮影しているのかが分かるということに気が付いた。アナログといえばアナログですが、これによって②の問題も解決することができました。
 
 
 

人間の体を使った臨床実験を行った

 
ようやく自分達が求めていた水準の胃カメラが完成し、人体での臨床実験を行う段階となった。なかなか胃カメラの実験の被験者になってくれる人はいなかったが、最終的には宇治の先輩である坂本医師が被験者として参加してくれた。坂本医師は胃もたれに悩まされていたことと、自分が役に立てるのであればということで自ら手をあげてくれた。そして初めて人間の体を使った臨床実験が行われた。
 


 
 
 

臨床実験は見事成功した!

 
宇治は坂本医師のお腹に慎重に胃カメラを入れた。胃の中で電球が割れないだろうか、とか、管などが胃の壁を傷つけてしまわないだろうか、とか、多くの不安と闘いながらの実験だった。

宇治は慎重にカメラのシャッターを切り、坂本医師の胃の内部を21回撮影した。すぐにその写真を現像して確認したところ、写真は坂本の胃潰瘍をはっきりと写していた。胃カメラの実験は大成功だった。ちなみに、坂本医師はすぐに手術をして治ったそうです。
 
 
 

胃カメラが全国の医師に称賛され、世界からも脚光を浴びた

 
昭和25年、全国の大学からおよそ500人の医師が集まり、宇治はその医師らの前で胃カメラについての発表を行った。宇治は胃カメラで早くガンを見つけることができれば、今よりももっともっと多くの人の命を救うことができることを話し、集まった多くの医師らから称賛された。

そして、早期に胃がんを発見することができる胃カメラが日本で開発されたと、日本中、世界中のニュースで伝えられた。胃カメラは世界中で脚光を浴び、各国の多くの医師らが宇治のもとへ胃カメラの研修に訪れるようになった。

宇治やオリンパスの技術者達は、胃カメラによって早期にガンを見つけられるようになったことから、多くの人の命を救うことに成功しました。この技術は今でも改良されながら使われており、これまでに数えきれない位の人の命を救ってきました。熱血医師と熱血技術者たちに感謝です。
 


 
 
 

感想

 
アツい想いがすごい!
多くの命を助けたいという一心で、自分の給料や時間を使って胃カメラの開発をするのはすごいと思いました。自分が目指すところに突き進む想いの強さに感動しました。
 

技術力がすごい!
欲しいと思ったものを実際に創り出す技術力がすごいと思いました。何度も試作し、工夫し、およそ1年という短い期間で胃カメラを作り上げたのはすごいです。
 

人柄がすごい!
人ってやっぱり感情で動かされるんだな~って思いました。アツい気持ちを持った人たちが集まり、その輪が広がっていったんだと思いました。

宇治さんは東大付属病院を辞めて町医者になり、多くの患者さんに慕われていたそうです。家族にも患者さんにも胃カメラを開発したことは言うことはなかったそうです。

杉浦さんはオリンパスを辞め、人の命を救う仕事がしたいといって71歳で亡くなるまでの間、ずっとずっと医療機器を作り続けたそうです。なんだかグッときます。
 

私も何か大きなことがしたい!
とにかくすごい!とにかく感動した!そしてなんだか私も影響されてしまった!笑
 

そして私は考えた
一度はこういう夢のあるビジネスをやってみたいな~と思いますよね。けど、あまり取り柄のない一般人ができることってあるのかな、と思ったので色々と調べてみました。何か大きなことがしたい人は是非読んでみてください(笑)
 
 
 
 


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