30年苦闘した三菱電機の世界最速エレベーター開発ストーリー

30年苦闘した三菱電機の世界最速エレベーター開発ストーリー

 

今回は三菱電機が作った世界最速のエレベーター開発ストーリーをご紹介します。

あらすじ

戦後まもなく、GHQの指導によって日本のビルのエレベーター復旧が命じられました。そして、三菱電機は戦後の混沌とした時代からエレベーターの製造を再開し、揺れや騒音が少なく、乗り心地の良いエレベーターを作るべく奮闘しました。エレベーターの本家であるアメリカとの圧倒的な技術力の差に愕然としながらも、30年の苦闘の日々を経て世界最速・世界一のエレベーターを作り上げるまでの開発ストーリーです。

終戦後GHQからエレベーターの復旧を命じられた

昭和20年9月、日本は戦争に負け、マッカーサー率いるGHQが戦争で焼け残ったビルを次々に接収していきました。

ビルを見たGHQの人々は、どのエレベーターも使えないということに驚きました。なぜエレベーターが使えなかったかというと、戦時中は金属部品は全て兵器の材料として使われたため、エレベーターは製造が禁止されていたのでした。

日本政府はGHQから、「エレベーターの無いビルは使えないから無駄である。すぐにエレベーターを復旧しろ」と命じられました。

三菱電機の技術者達がエレベーター製造を再開

GHQからエレベーターを復旧させるよう命じられた後、三菱電機の技術者たちがエレベーターの製造を再開しました。エレベーター開発の経験がない技術者もおり、技術者達は倉庫にあったマニュアルを見つけだし、一からエレベーター開発の勉強を始めました。

技術者たちは戦時中軍用機の電気部品などを作っており、戦争に協力していたということから自分達に未来はないのではないかと考えていましたが、これを機にエレベーターの開発ができるということで必死に開発を行ったそうです。

製造したエレベーターに客からの苦情

GHQからエレベーターを復旧させるよう命じられた4年後の昭和24年、三菱電機のエレベーターは技術者達の努力によって無事納品され、多くの客から利用されていました。しかし、しばらくすると利用客から「内臓が浮き沈みする、不快だ」というような苦情がくるようになりました。

技術者達はこの不快を無くすため、高さ36mの試験棟を使って何度も何度も速度を変えて運転し、不快に感じる速度やポイントを研究しました。加速や減速に伴う急な速度変化などを緩和するため、制御装置を開発して何度もテストを行いました。この結果、技術者達は人が不快に感じるポイントをつきとめ、エレベーターの改良に成功しました。そして利用客からの苦情も無くなりました。

そんな頃、日本にも高層ビル建設の計画が浮上しました。

高層ビルに自社エレベーターを納入したいと考えた

昭和40年、戦後の高度成長期に、日本にも高層ビル建設の計画が浮上しました。計画されたのは、日本で初めての高層ビル『霞が関ビル』建設です。もちろん三菱電機は自社で製造したエレベーターをその高層ビルに入れたいと考えました。しかし、霞が関ビルのエレベーターに選ばれたのはアメリカのオーチス社の製品でした。

オーチス社は120年前に世界で初めてエレベーターを作った会社で、アメリカの高層ビルにエレベーターを次々と納品している実績ある会社です。分速540mでエレベーターを動かすことができ、当時の三菱電機のエレベーターのおよそ3倍の速度を誇っていました。三菱電機の技術者達は、オーチス社のエレベーターのスピードと技術力の差に、勝負にならない…と愕然としました。

しかし、その数年後、三菱電機にもチャンスが訪れたのです。

『サンシャイン60』の建設計画によりチャンスが訪れる

昭和51年、高さ240mの日本一の超高層ビル『サンシャイン60』建設計画が浮上しました。一時はオイルショックで頓挫した計画でしたが、この計画の再浮上により三菱電機にビッグチャンスが訪れます。

『サンシャイン60』には世界最速のエレベーターが必要とされ、このエレベーターの製造を三菱電機が任されたのです。実績がないところからの受注でしたが、三菱電機はこのビッグチャンスをものにするため、高さ240m、分速600mの世界一のエレベーターを作るべく100人の技術者を集めました。

世界最速エレベーターへの挑戦が始まった

昭和51年4月、三菱電機の技術者たちの世界最速のエレベーター実現への挑戦が始まりました。
目標は60階建ての『サンシャイン60』を35秒で一気に駆け上がる分速600mのエレベーターです。
これを実現させるため、通常の3倍である高さ2m、100馬力のモーターを使った巻き上げ機が作られました。

そして、速度はもちろん、揺れや騒音の少ない乗り心地の良いエレベーターを作りたいと考えました。
揺れを抑えるためには、ガイドレール(エレベーターのカゴが上下するためのレール)の継ぎ目をなくす精度の高い据え付け技術が必要でした。
また、騒音を減らすためには従来のカゴの作りを改良する必要がありました。

揺れを抑えるため240mの高さに一直線にレールを引く

昭和52年2月、『サンシャイン60』は31階まで建設が進み、エレベーターのガイドレール工事が始まりました。

エレベーターの揺れを抑えるためには、ガイドレールの継ぎ目を無くして240mの高さに一直線にレールを据え付けなければなりません。レールの長さは5mで、これを204本まっすぐに継ぎ目なく据え付けていきます。この工事を任されたのは20人の据え付け職人たちで、この世界一のエレベーターを実現させるために奮闘しました。

命綱をつけて作業用のゴンドラに乗り込み、レールを設置する度に継ぎ目に段差がないかを測定し続けました。地上100mを超えてからは風で作業用ゴンドラが煽られ、過酷な作業現場となりました。しかし据え付け職人たちの技術力と強い信念により、204本のレールは1mmのズレもなく据え付けられたのです。

騒音を抑えるためにカゴの改良を行った

従来、エレベーターのカゴは四角く、空気抵抗をもろに受けるため騒音がひどく、音の大きさは台風レベルでした。そんな騒音の中では快適にエレベーターに乗ることができないため、騒音を減らすための改良が行われました。カゴは四角い形から流線形にして空気抵抗を減らし、壁を二重構造にすることで音を抑えようとしました。

しかし、壁を二重構造にすることで安全性への疑問があがったのです。もし停電になってしまうと換気扇が止まるので、二重壁の間の換気の道だけで十分な空気が循環できず酸欠になるのではないか?という疑問です。

この安全性に対する疑問を解決すべく、技術者たちは実際にエレベーターに人を入れて実験を行うことにしました。机上の計算だけでなく、本当に問題ないことを証明するため、医師立ち合いのもと23人の技術者がエレベーターに乗り込みました。

停電を想定して換気扇を停止し、空気中の酸素を測定しました。通常、空気中の酸素は21%、18%を切ると酸欠で危険です。実験開始から30分後、カゴの中の酸素は19%まで減ってしまいました。二重壁の構造は失敗か…と思われたとき、換気の道から空気が入ってきたのです。その後も酸素量がそれ以上減ることはなく、二重壁の構造の安全性を証明することができました。

エレベーターが設置され試験運転が行われた

設計上、速度、音、乗り心地ともに世界一のエレベーターを実現できると考えれ、『サンシャイン60』の現場でエレベーターが組み立てられました。

そして昭和51年3月、『サンシャイン60』のオープン3か月前に、技術者達が見守る中試験運転が行われました。スイッチを押し、エレベーターが動き出して順調に速度を上げて動いていました。エレベーターの速度は分速600mに達し、みんなが目指していた世界一の速度を実現することができました。

しかしそんな時、いきなり激しい音とともにエレベーターが急停止してしまいました。ドアを開けると停止位置から20㎝ほどズレたところにエレベーターが止まっていました。オープンまであと3か月、原因が分からないエレベーターの緊急停止に技術者達は焦り、原因究明を急ぎました。

緊急停止の原因は制御装置の作動によるものだった

技術者達が必死に原因を探ったところ、エレベーターが緊急停止したのはエレベーターが天井に衝突しないように設置されていた制御装置によるものだということが分かりました。最上階に近付くと制御装置が作動するのですが、高層ビルの場合この作動が1ミリずれるだけでかなりの誤差が生じ、そこで緊急停止してしまったようです。

技術者たちはこの誤差を無くすため、ミリ単位の調整を何度も何度も行いました。早朝から深夜まで、泊りがけで試験を行い、調整を始めてから14日後、ようやく60階のフロアにエレベーターをピタリと止まらせることに成功しました。なんとか『サンシャイン60』のオープンに間に合わせることができたのです。

最後の試験運転では10円玉が使われた

最後の試験運転では、地下1階にエレベーターを停止させ、そこでカゴの床に10円玉をたてて置きました。そしてそのままエレベーターを60階まで作動させました。

カゴはゆっくり上昇し、12秒後には分速600mに到達、23秒後には減速を始めおよそ30秒で60階に到達しました。60階に到着後、10円玉は倒れずたったままでビクともしていませんでした。三菱電機の技術たちは、揺れにも騒音にも強い乗り心地の良い世界最速のエレベーターを作ってみせたのです。

サンシャイン60がオープンしエレベーター本格始動

昭和53年4月、『サンシャイン60』のオープンをきっかけに、世界最速のエレベーターが本格始動しました。当時日本一高い超高層ビルである『サンシャイン60』の展望台には人々がこぞって集まり、毎日9000人もの人をエレベーターで展望台まで運びました。

しかし、わずか2か月でまた新たな問題に直面します。

強風によりエレベーターが激しく揺れた

『サンシャイン60』のオープン後、わずか2か月で新たな問題に直面しました。あんなに試験運転したエレベーターなのに、なぜかエレベーターが激しく揺れていたのです。

原因を探るため技術者がエレベーターに乗り込んだところ、57階にさしかかったときにガタガタと激しく揺れだしました。技術者がカゴの上にあがると、カゴを繋いでいる9本のロープがガタガタと震えていたのです。この原因は、当時東京に吹いていた強風だったそうです。この強風を受けて『サンシャイン60』のビル自体が揺れていました。

例えビルが揺れていたとしても揺れないエレベーターを作る

技術者達は、強風によってビル自体が揺れていたとしても、揺れないエレベーターを作ろうと考えました。そんなこと可能なのか?と疑問を持つ人も多くいましたが、三菱電機はこのエレベーターの信頼を守るために必死に改良を行いました。

ある技術者が、車の部品であるダンパーがエレベーターの揺れを抑えるのにも有効なのではないかと言いました。車輪の衝撃を吸収してくれるダンパーの構造をエレベーターにも応用し、ダンパーを使った新しい装置を制作しました。そしてその装置をカゴとロープのつなぎ目に取り付けました。

昭和54年3月、東京に風速23mの強風が吹いた

昭和54年3月、東京を春の嵐が襲い、風速23mの強風が吹きました。鉄道が徐行運転などを行っている中、サンシャイン60の営業が開始しました。強風時でも揺れないエレベーターであるかを実証する日がきたのです。

営業開始後、エレベーターが動き出しました。エレベーターが57階にさしかかったときにもエレベーターは揺れず、スムーズに60階まで人々を運ぶことができました。技術者たちが作ったダンパーは見事ロープの揺れを吸収し、強風でも乗り心地の良いエレベーターが完成したのです。

エレベーターの本家アメリカから視察団が訪れた

ここまで来るのにおよそ30年、苦闘の日々にも屈しなかった技術者たちが世界一のエレベーターを作ったのでした。

この世界最速のエレベーターを視察するため、エレベーターの本家であるアメリカからも視察団が訪れました。アメリカの技術者達は口々に「こんなに速くて乗り心地の良いエレベーターは初めてだ」と言いました。この乗り心地の良さを、敬意を込めて「ジャパニーズレイド(日本の乗り心地)」と呼んだそうです。その後、三菱電機のエレベーターは世界70か国へ輸出される主力商品となりました。

感想

技術者たちの諦めない心がすごい!

戦後間もない中で世界とたたかえるエレベーターの開発を行っていた技術者達の技術力の高さはすごいと思いました。戦後30年で世界一のエレベーターを作ることはかなり大変だったと思いますが、技術者達が諦めずに頑張ってくれたから今の日本があるんだな~と思います。

世界一のエレベーターが完成し、そのエレベーターが世界に輸出されるようになり、技術者たちは感無量だったそうですよ。諦めずに目標に向かって突き進んできた結果だと思うので、本当に尊敬します!

日本品質だと思った!

世界には高い技術力をもったエレベーターのメーカーがありましたが、揺れや騒音を抑える乗り心地を重視したところが日本ならではの心遣い・日本品質だと思いました。三菱電機のエレベーターが世界に広がっていったのも、こういう品質の高さからなんだろうな~と思います。

三菱電機の後輩たちも頑張っている!

平成5年に、世界最速の記録が塗り替えられました。分速750mのエレベーターが登場し、そのエレベーターを作ったのは三菱電機の後輩たちだそうです。平成16年には、再度三菱電機の後輩たちによって世界最速の記録が塗り替えられ、ギネスにも認定されました。このエレベーターは中国・上海市の高層ビル「上海中心」に設置されたもので、分速1230mで上昇するそうです。すごいですね!

10円玉が倒れない乗り心地の良さはこれらのエレベーターでも実現され、エレベーター開発のDNAは次の世代にしっかりと受け継がれているんだと思いました。なんだか素敵な話ですね!

私も何か大きなことがしたい!

とにかくすごい!なんだか感動した!そして私も影響されてしまいました(笑)

そして私は考えた

一度はこういう夢のあるビジネスをやってみたいな~と思いますよね。けど、あまり取り柄のない一般人ができることってあるのかな、と思ったので色々と調べてみました。何か大きなことがしたい人は是非読んでみてください(笑)

 


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