目次
マツダの47士が開発した執念のロータリーエンジン開発ストーリー
ロータリーエンジンとは
ロータリーエンジンとは、ローターの回転運動による容積変化を利用して生みだされる熱エネルギーを回転動力に変換して出力するエンジンのこと。構造がシンプルなのにも関わらず、小型で軽量、高い静粛性かつ高出力を実現できるとのことで、夢のエンジンと言われていた。
世界中の自動車メーカーがこぞってロータリーエンジンの研究・開発を行ったが、量産車として販売に成功したのは世界でもマツダだけだった。シトロエン、NSU、VAZなどの自動車メーカーで実用化に成功したものの、量産車として販売されることはなかった。
あらすじ
昭和30年代、自動車業界では熾烈な技術競争が繰り広げられ、世界中の自動車メーカーが夢のエンジン「ロータリーエンジン」の研究・開発を行った。
マツダも社運をかけてロータリーエンジンの開発を行ったが、開発は苦難の連続だった。アメリカの排気規制やオイルショックが立て続けに起こり、マツダは自動車が売れずに一時経営危機にまで陥ってしまった。
しかし、マツダの47人の技術者で構成されたロータリーエンジン開発チーム「ロータリー四十七士」は、不屈の精神でアメリカの排気規制やオイルショックに立ち向かい、気の遠くなるような改良を行って環境に優しい夢のエンジン「ロータリーエンジン」を完成させた。
世界中で夢のエンジン「ロータリーエンジン」が注目される
昭和30年代、高度経済成長期の真っ只中、自動車業界では熾烈な技術競争が繰り広げられていた。
この激しい技術競争に打ち勝つため、世界中の名だたる自動車メーカーがこぞって作りたいと考えた夢のエンジンがあった。その夢のエンジンが、ロータリーエンジンである。
構造がシンプルなのにも関わらず、小型で軽量、高い静粛性かつ高出力を実現できるとのことで、夢のエンジンと言われていた。
マツダが社運をかけてロータリーエンジンの開発を始める
マツダ(当時の東洋工業)は、この熾烈な技術競争に勝っていくためには、会社の存続をかけて独自の技術を開発するべきだと考えた。当時、マツダでは三輪車や軽自動車の開発をメインで行っており、パワーのあるエンジンの開発は経験がなかった。しかし一方で、日本では自動車ブーム真っ只中だったため、まだ実用化されていないロータリーエンジンをどこよりも早く実用化できれば、この競争に勝つことができると考えた。
マツダにとってロータリーエンジンの開発は未知の世界だったが、社運をかけてロータリーエンジン開発に多額の資金を投入した。そして、社内では「ロータリー四十七士」と呼ばれた47人の若い技術者を集め、ロータリーエンジンの開発チームを立ち上げた。
さっそくロータリーエンジン開発は暗礁に乗り上げた
ロータリーエンジンを実用化させるため、ロータリーエンジン先進国である西ドイツに技術者が派遣された。そこで技術者達は、悪魔の爪痕と呼ばれる異常摩耗「チャターマーク」という壁にぶつかることとなった。
マツダが作ろうとしたバンケル・ロータリーエンジンは、ローターが三角形のおむすび型をしており、高速で回転する(エンジンを動かす)度にアペックスシール(気密性を確保するために取り付けられたもの)が削られてしまった。この異常な摩耗を「チャターマーク」といい、このチャターマークを解決しないことにはロータリーエンジンの実用化は不可能だった。
「ロータリー四十七士」は、なんとかこのチャターマークを解決できないかと奮闘したが、解決の糸口はいっこうに見つからず、ロータリーエンジン開発は暗礁に乗り上げた。マツダ社内からは予算の無駄遣いだと言われることが多くなり、技術者達は辛い日々を送っていた。
チャターマーク問題が解決しロータリーエンジンが完成
昭和39年、チャターマーク問題に悩まされた「ロータリー四十七士」だったが、エンジン内部の形状を変えるなどしてようやくチャターマークの問題を解決することができた。そこから何度もテストを行い、ようやくマツダのロータリーエンジンが完成した。
そして昭和42年、マツダ初のロータリーエンジン搭載車「コスモスポーツ」が発表された。海外ではロータリーエンジン実用化を日本の1メーカーが実現したと驚き交じりに報道され、「コスモスポーツ」は世界中から注目される自動車となった。また、マツダの技術力を世界に証明することができ、ロータリーエンジン開発チームも歓喜に沸いた。
昭和43年には、ロータリーエンジン搭載車2号の「ファミリア・ロータリークーペ」が発売され、マツダは世界の自動車業界を牽引する存在になろうとしていた。ロータリーエンジンの実用化を成功させ、順風満帆かと思われたマツダだったが、「ロータリー四十七士」はまた大きな壁に立ち向かうこととなった。
マツダへの大きな逆風①米マスキー法が可決
順風満帆かと思われたマツダだったが、アメリカでマスキー法が可決したことにより、世界への第一歩と考えられたアメリカへの自動車輸出が困難になった。
米マスキー法とは
アメリカでは自動車の排気ガスによる環境問題が深刻化しており、この対策を行うために国がマスキー法を可決した。マスキー法では、5年以内に排気ガス中の有害成分を10分の1に削減できなければ、アメリカでの自動車販売を拒否するというものだった。ロータリーエンジンがこのマスキー法をクリアすることは難しく、「ロータリーエンジンが米国を走ることはないだろう」と言われた。
「ロータリー四十七士」はマスキー法にも屈しなかった
しかし、「ロータリー四十七士」はマスキー法をクリアするために開発を行った。HCに空気を加えて再燃焼させる「熱反応器(サーマルリアクター)方式」を取り入れ、実用化に向けて日々研究、開発を進めた。技術者達はなんとしてもアメリカで成功したいと思い、ロータリーエンジンの材料や構造などすべての面を見直し、骨の折れる作業を続けた。技術者達の頑張りのおかげで、昭和48年、無事にロータリーエンジンがマスキー法をクリアすることができた。
ようやく1つの問題を乗り越えることができたが、そんな矢先にもう1つの大きな問題がマツダを襲った。
マツダへの大きな逆風②第一次オイルショックが世界を襲う
昭和49年、第一次オイルショックが世界を襲った。ロータリーエンジンは従来のエンジンよりもガソリンを多く必要とすることから、世界中から非難されるようになった。
そして、マツダのロータリーエンジン搭載車は世界中で売れ残り、137億円の経常赤字を抱えたマツダは深刻な経営危機に陥った。マツダでは大規模なリストラが断行され、ロータリーエンジンは悪魔のエンジンとして忌み嫌われた。
フェニックス計画が立ち上げられた
しかし、経営会議で議論された結果、ロータリーエンジンの存続は社会的責任であるということから開発続行が決まった。「ロータリー四十七士」は必ず燃費を向上させ、ロータリーエンジンの汚名返上をすると誓った。これが、ロータリーエンジンの燃費を40%改善するための5カ年計画「フェニックス計画」の始まりだった。
技術者達の不屈の精神「ロータリースピリット」で汚名返上
技術者達は、ロータリーエンジンの持っているパワーを落とさずに燃費を抑えるため、1000回という途方もない改善を行った。「技術で叩かれたものは技術で返せ」と挑戦を繰り返す技術者達の不屈の精神「ロータリースピリット」で、マツダは遂に、フェニックス計画の目標を上回る50%強の燃費改善を実現した。
昭和53年、燃費が向上したロータリーエンジンが「RX-7」に搭載された。RX-7はル・マン24時間耐久レースや世界ラリー選手権をはじめ、様々なモータースポーツに挑戦し、世界で愛される自動車になっていった。
ル・マン24時間耐久レースへの飽くなき挑戦
マツダは、24時間でのサーキット周回数を競う世界最高峰の自動車レースであるル・マン24時間耐久レースにロータリーエンジンで挑戦し続けていた。
昭和54年、チームのメンバーはわずか10名で、ベンツやポルシェなどの名だたるメーカーとの格差は歴然だった。この年のル・マン24時間耐久レースの結果は惨敗だったが、マツダはロータリーエンジンの改良とともにレースに参戦を続けた。
昭和57年にはRX-7でル・マン初完走を達成し、13回目の挑戦である平成3年には、700馬力を誇る4ローターロータリーエンジンを搭載したMazda787Bで遂に日本車初となる総合優勝を果たした。この優勝をきっかけに、マツダのロータリーエンジンはますます世界で愛される存在となった。
感想
不屈の精神がすごい!
「ロータリースピリット」という「技術で叩かれたものは技術で返せ」と挑戦を繰り返す技術者達の不屈の精神はすごいと思った。そして諦めずに開発をしたからと言っても、50%の燃費改善はすごいと思う。大きいな壁に立ち向かい続ける技術者たちの気持ちの強さに感動しました!
社会への責任を果たした!
マツダが経営危機に陥り、一度はロータリーエンジンの開発が中止されたが、「ここで開発を辞めてしまったらロータリーエンジンが失敗だったことを認めることと同じ」と考え、開発を再スタートした。既にロータリーエンジン搭載車を購入してくれたお客様のためにも、絶対に汚名返上すると誓った心意気にグッときました!
私も何か大きなことがしたい!
とにかくすごい!とにかく感動した!そしてなんだか私も影響されてしまった!笑
そして私は考えた
何がしたいのかは今のところ見当もつきませんが、何をするにしても資金が必要ですし、今のうちに集めておこうと思います。飛躍(笑) けど、あまり取り柄のない一般人ができるお金儲けの方法ってあるのかな、と思ったので色々と調べてみました。何か大きなことがしたい人は是非読んでみてください(笑)