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世界初オートフォーカスカメラ「コニカC35AF」の開発ストーリー
今回は、世界初のオートフォーカスカメラの開発プロジェクトについて書いていきます!
ロマンですね~~~。
あらすじ
カメラメーカーである小西六(こにしろく)が、世界で始めてのオートフォーカスカメラ「コニカC35AF」を開発するまでのストーリー。
一人の熱血技術者が、「カメラを誰でも使えるものにしたい」、「大切な瞬間を撮りのがすことなく記録できるようにしたい」、「世界一のカメラが作りたい」と、研究開発に没頭し、14年もの歳月をかけてやっと世界初のオートフォーカスカメラを完成させた。当時、人の目と同じ機能をカメラに実装するということは、誰もが夢のような技術だと考えた。開発は苦難の連続だったが、技術者達の熱意によって商品化までこぎ着けた。そして、世界で始めてのオートフォーカスカメラが誕生したことで、多くの人に喜ばれ、世界中で100万台以上を売り上げる大ヒット商品が誕生した。
世界初オートフォーカスカメラ「コニカC35AF」とは
コニカC35AFとは、株式会社小西六(現在のコニカミノルタ)が開発した世界で初めてのオートフォーカスカメラ。
このコニカC35AFができるまでは、自分でカメラのピントを調節する必要があり、動いているものの撮影は難しかった。しかし、コニカC35AFが誕生したことにより、自動でピントを合わせることができ、0.1秒というピント調節の速さから、動いているものでも撮影することができるようになった。コニカC35AFは昭和52年に発売開始し、世界中で100万台が売れた。
コニカC35AFは一人の技術者の熱意から開発が始まった
この研究に携わった一人の技術者というのが、小西六の技術者である百瀬治彦さん。百瀬さんは高校生のときに初めてNikonのカメラと出会い、カメラの世界に魅了されていった。
しかし当時のカメラは日本人の平均月収を超える高価なものだったため、一般人には縁遠いものだった。そこで百瀬さんは、「カメラを誰でも使えるものにしたい」、「大切な瞬間を撮りのがすことなく記録できるようにしたい」、「世界一のカメラが作りたい」と考えるようになり、今までにない革新的なカメラを作りたいと思った。
他社からオートフォーカスカメラの試作機が発表された
昭和38年、Canonがオートフォーカスカメラの試作機を作って発表した。まだまだ実用化ができるようなものではなかったが、これが完成すればとんでもない技術だと考えられ、世界中から注目された。これは百瀬さんがオートフォーカスカメラの研究を始めるきっかけとなった出来事だ。もしオートフォーカスカメラを世界で初めて商品化することができれば、世界中から称賛されることだ。
百瀬さんに火がついた。
小西六でオートフォーカスカメラの研究が始まった
昭和38年、小西六ではまだオートフォーカスカメラの研究が行われていなかった。そこで百瀬さんは、オートフォーカスカメラの研究がしたいと上司に直談判した。上司は百瀬さんの熱意におされ、結果として20万円の予算をつけてもらうことができた。
しかしその後、小西六の業績が急激に悪化し、せっかく始めた研究の存続が難しい状態になってしまった。業績悪化に伴い、退社を余儀なくされる人や、人事異動、主力商品の見直しなどが行われ、研究どころではなくなっていった。実際、予算も打ち切られてしまった。
それでも百瀬さんは諦めなかった。
それでもオートフォーカスカメラの研究を続けた
研究の予算が打ち切りとなり、会社としてはオートフォーカスカメラの研究はやらないということになったが、百瀬さんとその上司である内田さんは、こっそりと研究をつづけた。昼は通常業務を行い、夜は内密に研究をした。研究費は上司である内田さんが工面した。この研究によって得られた周辺技術などを売ってお金を手に入れた。
昭和48年にようやく試作機が完成した。しかし、かなりの重さで実用化が難しい状況だった。ただ、最新の電子回路を使って0.1秒でピントを合わせることには成功した。
ここでまた転機が。
アメリカで被写体との距離を感知する小型モジュールが開発された
百瀬さんが必死に研究を続けていたモジュールに関して、アメリカでもっともっと小型化されたものが発売された。衝撃的だった。
このモジュールを使えばオートフォーカスカメラの開発ができるのではないかということから、世界中のカメラメーカーがこのモジュール販売会社と契約を結んだ。日本の競合カメラメーカーももちろん契約を結んでいた。しかし、小西六はまだ契約を結んでおらず、上司の内田さんが小西六も契約するように社長にかけあった。社長はこの契約をする条件として、二つの条件を出した。
条件①:モジュールはストロボが内蔵されているコンパクトカメラに内蔵すること
条件②:世界で初めてのオートフォーカスのコンパクトカメラを発売すること
この条件を聞いたとき、技術者たちは難しいと感じましたが、休日返上、深夜残業を続けて開発を進めていった。他のカメラメーカーが試作機の発表をする中、技術者達の焦りとプレッシャーは凄まじかった。
世界初のオートフォーカスカメラ開発プロジェクトチームが発足
世界で初めてのオートフォーカスのコンパクトカメラを発売するため、技術者11名が招集された。平均年齢は29歳で、研究開発に没頭した。
技術者たちの残業時間は200時間を超え、休日返上で働く日々が続いていたため、疲労もかなりたまっていた様子。しかし技術者たちは、絶対にこのプロジェクトを成功させるんだ!と、目を輝かせながら研究を続けていた。絶対に世界で初めてのオートフォーカスカメラを作るという熱意が、このプロジェクトを動かしていた。
そしてようやく試作機が完成し、みんなで撮影テストを行ってみると……、ほとんどの写真のピントが合っておらず、実用化は不可能だった。技術者たちはみんな愕然としたが、内田さんと百瀬さんはすぐにアメリカに行き、メーカーにモジュール改良の依頼をした。
新しい試作機が完成しテスト実施
ちょうど設計図ができた頃、改良をお願いしていたアメリカのモジュールが届き、そのモジュールを組み込み、また、小西六オリジナルの新たな機能なども加えた新しい試作機が完成。成功する希望と失敗する不安が入り混じる複雑な気持ちの中で、試作機のテストが行われた。こどもにカメラに向かって走ってくるように指示を出し、それをカメラで何枚も撮影した。
結果、カメラはいきいきと走ってくる子供をばっちりおさめていた。技術者たちの歓喜の瞬間だった。また、百瀬さんが14年間夢見た、大切な瞬間を撮りのがすことなく記録でき、人間の目のように一瞬でピントを合わせることができるオートフォーカスカメラが誕生した日だった。
世界初オートフォーカスカメラ「コニカC35AF」が誕生
技術者たちは、この技術の発表会見について書かれた新聞記事を読んで、自分たちがやったことは非常に凄いことなんだと実感した。
技術者たちの努力の甲斐あり、昭和52年、世界で初めてのオートフォーカスカメラ「コニカC35AF」が発売された。このカメラは世界中から注目され、「コニカC35AF」は世界中で100万台以上を売り上げ、多くの人から愛されるヒット商品となっていった。
感想
技術者たちの熱意がすごい
14年間、苦難の連続だったにも関わらず、何があっても諦めずに研究・開発を続けた技術者たちの熱意がすごいと思いました!何かを最初に作り上げるってそれだけ大変で、価値があることなんだと感じました。労働時間が長すぎたので、上司に休めと言われても、技術者たちは自分たちの意思で研究を続けたそうです。そこまで打ち込めるものがあるってすごいです。素敵!
内田さんは敏腕だと思う
上司の内田さんは、オートフォーカスカメラの費用が打ち切られても、百瀬さんの熱意を優先させてプロジェクトをこっそり進めていました。研究費も工面してくれたし、アメリカの企業が開発したモジュールと契約をするように社長に交渉もしていました。また、実際にアメリカに飛んで、最初は相手にされなかったようなのですが、モジュールを改良してもらえるように頼み込み、熱意でOKをもらいました。絶対敏腕だと思います(笑)
私も熱意を持って取り組めるものが欲しい
熱意を持って取り組めるものが欲しいとずっと思っていましたが、見つからないまま今に至ります…( ;∀;)好きなこととか、熱中できるものがある人って本当に素敵だと思います。どうやって見つけてるんでしょう。。
そして私は考えた
何がしたいのかは今のところ見当もつきませんが、とりあえず研究するにしても開発するにしても、何をするにしても資金が必要ですし、今のうちに集めておこうと思います。またまた飛躍(笑) けど、あまり取り柄のない一般人ができるお金儲けの方法ってあるのかな、と思ったので色々と調べてみました。何か大きなことがしたい人は是非読んでみてください(笑)
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